Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

父を案じる親族の記憶の原点は釜山からの国際電話

学生の頃一人で釜山に行き、初めて父の親族に会ったとき、

「ここを切って一人で生きたのか……」

という感慨で油断すると涙腺がゆるむので、気を張っていた記憶がある。

妹も同じ感慨をもったと聞いた。

 

父は自分の人生を振り返り後悔することが多かったけれど、濃厚な儒教に基づく親族から離れていたので、自由に生きれる可能性を娘に語っていた。

そしてその可能性は当たっていた。


父は片足はまだ儒教の世界に置いていたが、私は儒教は博物館で眺めるものに完全に変わってしまった。

この儒教との断絶が私のような境遇で育った者にはすごく得難いものであることがわかった時、よかったとしみじみ思ってきた。

だから両親の不和も「家庭のしつけがなっていない」という日影の言葉も引き受けられた。

               

小学校時代わが家に国際電話がかかってくることがあった。

昭和40年代の初め、電話回線が、一般家庭として商家や裕福な家庭に限られていた時期から、その頃にはほとんどの家庭に引かれていた。
 
しかし国際電話がかかってくる家は稀だった。

オペレーターが、
「釜山からの国際電話です」
と伝えると、受話器を持つ父は覚悟を決めて弟の声を待った。

父は本来母語であった韓国語を自由にあやつる言語能力を失っているので、すぐ下の弟である叔父が日本語で話していたと思う。
 
私が幼かった頃に何度か目撃した光景で、国際電話で誰としゃべっているのか不思議だった。

その上父が喜んでいるようにも見えなかったことが、私を不安にさせた。

叔父は受話器の向こうに父の声を確認すると、祖父に受話器を渡す。

電話口の向こうでは、受話器から漏れる父の声に親族が耳を集中させていたと思う。

祖母や涙もろい叔母の一人はきっと泣いていたに違いない。
 
祖父は一度も帰ってこない長男である父に威厳を持って説得する。
 
祖父と父は韓国語で互いの意思を伝えあう関係にはない。

このとき祖父はかつて覚えた日本語を駆使していたと思われる。

父もほんの短い期間で覚えた韓国語を使おうと努力するが、いいわけできる適したことばが咄嗟に浮かばず、身を硬くして聞いているが、祖母に受話器が渡ると、
「オンマ(お母さん)」
と一言だけ返して、胸に迫ってくる感情にゆだねてしまう。
父が初めて身につけた母語と思われる。
「なんていってんの?」
受話器を置いた父に私が問うと、
「一度帰ってこいって」
父が感情を抑えていうと、顔を洗いにいった。
 
私は幼い頃から父の近くにいる子どもだったので、父のことを親身に思う人たちの存在を感じて胸が熱くなる。

そう思える父と母の関係や父の境遇がわかる年齢になっていた。


しかしある時期までの父は、親族にそっとしておいてほしいと願っていたように思う。

なっている電話の着信音が国際電話とわかれば、とらずにそのままにしたかも知れない。

子どもはまだ小さかったので、どこにも持っていきようのない感情を抱えて生きていたころだった。
 

国際電話でのやりとりが父と釜山にある父の家族の存在を感じる原点だった。

 

もう叔父や叔母は高齢で、亡くなった人もいる。

さらにコロナ禍の時代になり収束の見通しがたたない。

この国際電話のエピソードは叔父と叔母に語れずに終わりそうだ。