Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

『偉大なる道』にまつわる遺伝いろいろ

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数年前、元力士と綺麗な顔立ちのアナウンサーを両親にもつ息子が、靴職人というユニークな職業についたという話題を知ったとき、「いい仕事えらんだな」と感心したり、顔立ちや雰囲気が両親に微妙に似ていて、DNAがもたらす不思議さを感じたものだった。

 

いくつあるかわからないけれど、子が成長していく中で展開される心身のいい面は両親から受けついだものにかなり強く左右されるという確信をもっている。

身辺や、子育てを通じて見えた景色や、有名人の境遇を見たり聞いたり読んだりを通じて、そう考えるようになってきた。

特に音楽、美術などの芸術方面や身体能力については両親のどちらかから受け継いでいるように思う。

 

最近テニスプレイヤーとして世界的に脚光を浴びている大坂なおみさんの両親は、特にテニスができるというわけではないらしいが、有色人種であることは関係なく、どちらかは身体能力は高い人だと思っている。

ピアニストのフジコ・ヘミングさんのドキュメンタリーを見たことがあるが、ピアニストのお母さんから生きていく手段としてピアノの猛特訓を受けて育った。

両親は彼女が小さい頃に離婚したので、スウェーデン人のデザイナーだったお父さんとは別れて以来一度も会っていないという。

ところが彼女はピアノ演奏とは別にイラストを描くことも好きで、作品は独特の雰囲気があり感心した。この道でも生きていけた人だったかも知れないと思ったりした。

 

一昔前は「氏より育ち」という言葉があってたが、今は「環境よりDNA」だと思っている。

たまたま両親のどちらかから受けついだDNAの方が、環境よりその人物の人生にあたえる影響ははっきりしていると思う。

ある人物の秀でた面を考えるとき、どういう両親でどういう環境で育ったかは興味ある情報だ。

 

それと遺伝に関しては、長男は母親、長女は父親に容貌、雰囲気、「好きなもの、好きなこと」が似ていている傾向が強くて、次男次女はその逆、三男三女以降については情報不足でなんともいえないという自論をもっている。

 

これを否定する人いるかな? 

個人的には8割、9割であたっていると思っている。

 

『偉大なる道』で朱徳の人生を味わっていると、この遺伝について考えざるを得ない事例を発見することが何度かあった。

朱徳は、何代もつづく農民一族の出身という環境から考えて珍しいほど音楽がそれなりにわかる人だった。

スメドレーもこの件については、母方の影響を考えていた。

 

「朱家の子たちは、民謡をうたったり、手に入るものならどんな楽器でも鳴らしたりして生長して行ったが、それについては、おそらくチュン家の血が物をいっているのだろう。」

 

朱徳の母親は旅芸人の娘で、やさしい性格の持ち主でもあり、三男の朱徳は「母親似」と客観的に自分を語っている。

父親はすごく乱暴でむごい人で、朱徳儒教社会の習いで形式的には敬意をはらっていたが、内心は嫌っていた。
後年は、父親の乱暴さは多くの人民と同じく、封建社会の貧苦のなかで形成されたものと理解し同情していた。

 

長男は笛や胡琴を上手に演奏できて、記憶力が優れていたので、塾では要領よく勉強して、残りの時間は短い歌を習いおぼえては笛で吹いたりした。

次男は乱暴者で小鳥を殺しては喜んでいるような子で、朱徳を悲しませた。

家族の決断ははやい。


「まったく頭が悪かったので、彼の家ではすぐに彼を退校させ、畑ではたらかせることにした」

 

三男朱徳は塾で熱心に勉強し、長男の楽器の演奏をききながら、自分でも演奏できるようになった。

 

朱徳はまじめな人だ。

その後科挙受験の勉強をしたり、家族への仕送りのために体育の先生になったり、儒教社会の規範の一つ「親への孝行」を「国への孝行」にシフトさせて、軍人になり、辛亥革命で活躍する。

革命後の挫折の日々に、再婚した女性とつかのまの安らぎをえる。


「ユ・チェンは琴を弾じ、朱は笛を吹き胡琴をかなで、後には他の楽器類を買いもとめて修得したが、その中にはオルガンもあった。」

 

軍人であり、写真を見る限りどこまでも農民らしい粗野な朱徳が、オルガンをひけたなんて想像しにくい。

 

その後フランスをへてドイツに留学する。

彼の友人たちにとって退屈であるか、大きな音を鳴らす騒音でしかなかった歌劇や演奏会に熱心にかよい、ベートベンが好きになったという。

 

ドイツで政治活動を続ける朱徳は3回警察につかまり、2回は領事館が介入してすぐに釈放された。
3回目のときも楽観して拘禁生活を楽しんで睡眠不足をとりもどした。


「……毎朝、守衛が私の小さな房に入ってきて、うすいコーヒーの入ったブリキ缶と黒パンの一かたまりを置いた。私はそれを平らげると、運動をやり、しばらく歌をうたって暇つぶしをし、それからまた寝た。……」

 

『偉大なる道』での名シーンのひとつととらえている。

 

土地革命を実施していくなか、ある地方では、貧苦のため男たちが海外に出稼ぎに出て、残された女たちは男の仕事をしながら、たくさんの「恋慕の歌」をつくった。
なかでも「いとしい人」という言葉ではじまる歌を聞いた兵士は、自らの境遇を重ねてすすり泣いたらしい。

 

「朱将軍はたちあがって、私の部屋の小さいオルガンのそばにゆき、この民謡をうたいはじめたーー」

 

朱徳はなんと弾き語りができた! 両手で弾けたのかな。

朱徳とスメドレーと通訳の3人と音楽が流れる名シーンだ。

 

やがて、毛沢東の軍と合流し、井岡山を拠点にして紅軍を結成したのだが、忙しいあいまをぬって、朱徳ならではのことをしている。

 

「井岡山にいるあいだに、朱将軍は、紅軍がつかっていた歌をあつめ、それをふやすのに一生けんめいになりはじめた。1937年には、これらの歌は、彼の上着のポケットに、たやすくすべりこませることができるくらいの大きさの、およそ2百ページの小さな本になっていた。この本は、ページのすみが、めちゃくちゃに折れ、手あかでよごれ、あるページは、ほとんど読めなくなっていた。」

 

朱徳のこのノートはいまどこで保管されているのかな。

中国映画『黄色い大地』で若い紅軍の兵士が地方の寒村にやってきたのは、貴重な歌を収集するためだったはず。
朱将軍もすすめているという内容のセリフがあったと記憶している。

すべてがつながってゆく。

 

「インキのしみだらけの色あせた赤い布の表紙をし、粗末なとじ方をした、この小さな歌の本を、やさしくなでまわしながら、朱将軍は、井岡山のあらあらしい岩山や、青々とした緑の谷、竹の林や、もみの森、潅木とかぐわしいさまざまな花、ほとんど一年中、山々をつつんでいる白い雲などを、じっと思いうかべていた。」

 

こういうことは朱徳だけの功績ではないが、ずっと見てくると、朱徳の母親の影響はゼロとはいえない。

 

ただ、「環境よりDNA」の影響の方が強いと思っているが、視野の狭い悲観主義に陥る必要もない。

長く人生を生きてくると、人は複雑で展開していく人生も多面的で、全てが決定される要因が存在すると考えるものではないこともわかってくる。

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