Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

『偉大なる道』にまつわる儒教いろいろ

本の題名はもう忘れてしまったけれど、政治哲学者ハンナ・アーレントの「個人にいったん身についた観念を取りのぞくことはむずかしい」という内容の文章を読んで、静かな納得を得たことがある。

 

『偉大なる道』は、儒教精神でつちかわれた封建社会から脱皮して、新しい社会を築くために大きな社会変革をおこしながら苦闘した、朱徳と仲間たちの物語とよんだ。

反対勢力との血なまぐさい闘争をへて、この難事業を成功させることができたのは、封建社会で虐げられてきた民衆の共感と支持を得ることができたからだ。

詳しい見識は持ち合わせていないけれど、毛沢東の農民路線はあの時代を超えていくには正しかったんだと思える。

しかし、新しい社会が無信仰・無宗教に根ざしたものなので、その後も問題や弊害が続いていていると解釈している。
竹をすぱっと割るようにことは運ばないということ。

個人的には「無信仰・無宗教」という言葉に引っかかってきている。

儒教を捨てても儒教が入っていた器はずっと残ってきたはずで、社会や個人から器を完全に処分することはできないという立場に立っている。

 

朱徳個人に焦点をあてると、旧から新社会、最終的には共産主義イデオロギーを支持する立場へとまたいでいくひとりの男の姿を詳しく記録したものになり、珍しい作品になっている。

朱徳の方に語りにくいことやできたら伏せておきたい話しもあったこともわかっている。

そういうふるまいも人間的な感じがして好ましく思っている。

それと大事なことなので繰り返すが、このブログの管理人は別に共産主義者でもないし、シンパでもない。

この本の魅力を語りたいと思っているだけ。 

 

さて、あらためて儒教とは何かをWikiで調べてみた。

孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上にわたって強い影響力を持つ」

儒教は、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教える」 

 

「仁、義、礼、智、信」は、一昔前の儒教文化圏ではとくに好まれる漢字で、人物の名前によく使われてきたことからも影響力がうかがわれる。

 

領土を治める支配者側や、一族にあっては家長、家庭の中では男にとって都合のいい思想体系であったのだろう。

だからこんな何世紀にわたって維持できたのかなと思う。

辛亥革命後の混乱時期に、孫逸仙孫文)から政権をゆずりうけた悪名高い袁世凱は、儒教を国教にして復活させようとまでした。

 

魯迅が「死んだ人間のために、いま生きる人間が犠牲になっている」という内容で、儒教批判していた文章を読んで感動したことがある。

 

建国後、儒教を否定している中国でも、日本や台湾や北朝鮮などでもそれなりに残されている。

しかし、現在、儒教がいちばん根強く残っているのは韓国だと思っている。
これは国自体が認めているし、美点として語られてもいる。


偶然、外野で育ったものから見れば、韓国は儒教精神が形式化されて、徹底されている社会に見えるし、日本の天皇制に似ているようにも感じてきた。

近代天皇家の婚姻をふくむさまざまな儀式のスタイルは、英国の王室のスタイルと儒教精神がミックスされたものに見える。

一方、韓国社会の弊害の原因をつきつめていけば、儒教精神にぶつかるのではないかと考えている。

 

韓国はキリスト教も盛んで、とくにカトリック信者は日本より多いはず。

個人としてクリスチャンになって儒教から多少自由になっても、一族から完全に距離はおけないせいか、ほのかに儒教の香りがするように感じる。

日本の場合は仏教の香りだと思う。

 

むかしマレーシアからきた女性留学生から聞いた話。

日本に来て最初の年のクリスマスシーズンを迎えて近所の商店街がそれ一色になった。

自分は仏教の国へ来たと思っていたが、住んでいるエリアはクリスチャンが多い町だと思ったらしい。

宗教に関しては日本社会のなんでもありで、ゆるゆるの環境がうらやましいとも言われたことがある。

マレー系のマレーシア人=イスラム教徒と考えると個人的にはちょっと窮屈な感じがする。

韓国人の儒教の関係もこれとよく似ていると思った。

ただ、韓国人は移動や結婚も信教の自由もあるので、異文化に出会うことで変化していっている感じはする。

儒教の弊害のひとつをあげるとすれば、異常な教育熱ではないか。

 

個人的には、儒教は博物館の展示物と考えていて、眺めるものとわりきっている。

特異な事情が重なって、ルーツがKoreaにあるにもかかわらず、自覚するかぎり儒教が身についていないし、好きになれないし、それどころか儒教批判する文章に強い共感をおぼえるようでは、どの集団にも帰属感がもてないのはあまりに当然。

 

『偉大なる道』に話を戻すと、儒教社会を否定することは、政権のトップから末端の民衆の男にとって、伝統的にうけついだ既得権益の半分を女にゆずりわたすことでもあるから、それはそれは大変な変革事業だった。

こういうことは綺麗事ではできなかったはずだと思う。

 

儒教からとりあえず解放された立ち位置から、ひとり静かに痛みをうけいれる瞬間が好きだ。

今までなんどもしてきたことだ。

 

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