Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

祖父の渡日事情ー生活破綻

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しまなみ街道をのぞむ今治港


すでに処分して手元にはないけれど、族譜を見れば、祖父と一緒に渡日した青年はどちらも次男であることがわかった。

儒教の伝統が強い社会にあって、宗家としての役目を担う長男ではなかったことが、私には意味深く思われた。

日本でも長男と次男以下の男子の扱いの違いは大きかった時代があった。

有吉佐和子の『紀の川』でもそのあたりの描写が印象的だった。

以前、中国の客家の歴史に興味を持ち調べた時があった。

はるか昔黄河流域から民衆が大陸を南下してくるのだが、もう戻ってくることはない移動なので、先祖の墓から掘り起こした骨を壺に収めて長男が運んで群れに加わったという。

さらに一旦落ちついた広東省あたりから内陸部の四川省へと移動する群れができたのだが、その際は本家筋は広東省において次男以下の分家筋が開拓者精神をもって動いた。

海外に出る者も多かった。

ひと昔前の儒教色が強かった東アジアにおける次男以下の男子の役割が面白そうだ。

 

話を戻すと、祖父とこの青年は族譜上では12親等の関係である。日本では遠縁という言葉で広くくくられ、具体的数字で表現されることはほとんどないと思っている。

祖父の父は養子なので、実際は父親同士は従兄弟なので、お互いははとこいうもう少し近い関係であったことは父から聞いていた。
族譜を眺めていたら、こういう事実がリアルにわかってくるからおもしろい。
 
因みにこの同行した青年は、ある時期から祖父と行動を共にすることはなく、戦後もそのまま日本に残って亡くなった。族譜はその事実と息子たちの名前のみを記載していた。

祖父の別行動は祖母の意向が大きく反映されていたと思う。それ以降夫婦は居場所を次から次へと移動していくのだが、父から聞いている限りでは全て祖母が祖父の背中を押していたようだ。

 

大分県の国東半島に定住していた祖父一家は、終戦後まもなく帰国する準備を始めたのだが、あの混乱期、同行した青年の家族とは連絡を取れずに終わった。愛媛県今治市周辺にいることはわかっていた。帰国してからも祖父はそのことが気がかりだったのだろう。父には日本に行ったら、この家族を探し出して会うようにといわれたようだ。

戦後まもない混乱期、戦場から戻ってきていない人もまだ多かっただろうし、ラジオでは尋ね人の情報が流されるような時代だった。父は役所にはがきで問い合わせたりしてなんとか探し出すことが出来た。役所からどこにどこに確かにその人はいますという返事をもらったそうだ。

とてもしんどい状況にいたその人に父が「誰誰の息子だ」と祖父の名前をいうと、泣き崩れて喜んでくれたと語っていた。

族譜に記載された簡単な情報は父から祖父にもたらされたものだと思われる。

日本の国内の農村でも次男以下の男子が都会に働きに出るという状況はよくある社会現象である。彼らが築いた家庭の営みが日本の高度経済成長を支えてきたとも思える。

私は工場や商店の多い市街地で育ったので、同級生はそういう家庭の子どもが多かったように感じている。同級生の多くは社宅住まいだった。

ただ朝鮮半島から宗主国日本への出稼ぎ労働者の場合は、異民族ゆえに手荒で屈辱的な対応で扱われた経験を得ることになった。まったく経験していない一世はいないはず。

 

とりあえず戦中は「徴用」で連れて来られた人も多く、同様には考えにくいが、戦前の出稼ぎ労働者の現象としては、日本国内の農村部から都市への出稼ぎ労働者と似ている。

祖父はさらに「あと2、3人連れて出た」と語ったらしい。
この同じ面(村)に住む2,3人の若者と祖父と一族の青年は、自分たちだけで渡日したことになる。

父がことばができない不自由を問題にすると、
「筆談で来た」
と祖父は説明したという。
祖父は山間部の故郷の面(村)で日本語の語学書を初めて購入した人と伝え聞いている。出稼ぎを意識したためか、単なる好奇心かは分からない。多分前者だろう。
 
祖父が初めて宗主国日本で働いた場所と中身については、父もはっきりは聞いていないようだ。語るのが嫌だったかも知れない。

祖父は自尊心の高い人だった。
ただ、愛媛県今治市での肉体労働についただろうと父なりに推測できるだけの情報はもらっていた。