Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

国東半島の七島藺

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琉球

1930年代、祖母と祖父は九州の宮崎県大分県あたりを行商して歩くという生活をしていたらしい。父のすぐ下の弟である叔父も生まれていたので、祖母がおぶっていたのだろう。

ところが父が学齢期に達したので、祖父はどこかに定住して学校に行かせないといけないと考えた。

そこで定住先として選ばれたのが国東半島だった。

それまでに行商を通じて国東半島の土地勘はあった。

父にすればどうしてこんないなか町にという疑問があって祖父に尋ねていた。

祖父は「土地が豊かだった」「人が優しかった」という理由で説明したという。

というわけで、父を含めた5人の子は地元の尋常小学校というか国民学校と呼ばれる学校に入学していった。

 

では、祖父は一体何をして生活を成り立たせていたのだろうか。

父から自分の父親は畳表の仕事をしていたと懐かしんでいたことを覚えている。

あまり関心がないときは「ふーん」で終わっていたけれど、調べて見ると興味深いことがわかってきた。

 

畳の原材料は何かと訊かれたら、何となく「い草」と答えられるぐらいの知識はあった。

そのい草の前には七島藺(しちとうい)と呼ばれる原材料があって、これは戦前戦中そして戦後のわずかの期間国東半島の特産物だった。

そして現在も細くなってきているが決して途切れることはなく続いているようだ。

琉球畳はもともとはこの七島藺を使っていたらしい。

七島の7つの島とは最近地震情報でよく目に付くトカラ列島を表していて、藺はい草のいである。

江戸時代にそのトカラ列島あたりから大分県に伝わり、国東半島の気候があったのか上の方から奨励されたのか一大生産地になった。

昭和10年から30年ぐらいまでが生産のピークだったらしい。

ちょうど祖父にとっても子育てのピークだった。

 

ネットで調べると茎の断面がい草は円形だけれど、七島藺は三角形という独特の形をしている。

そのために七島藺は機械生産で畳表ができなかったようだ。

茎を乾燥させて縦に裂いて、独特の織り機で畳表を作るのだが、当時の農家でもその織り機があって生産していた。

これは農家にとって貴重な現金収入をもたらしたので、盛んに行われたと読んだことがある。

 

祖父は七島藺から畳表になったものを扱う仲買人であった。

父は、祖父が畳表を縛って束ねている姿を懐かしんでもいた。

束になった畳表は近くの港から船で関東方面に運ばれたのかな。

詳しいことはわからないのでここまで。

 

行商から身を起こしているので、農家などから安くものを買って、加工したり工夫して高く売るという生業もあったと思う。

とにかく国東半島での暮らしは比較的安定していたらしい。

 

ネットで七島藺という言葉を見かけると読み方はわかるし、実物は見たことはないけれど愛着はもってきた。