Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

祖父と協和会

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現在の博多港


祖父が日本にいた20年ほどのことを語るとき、協和会という団体について触れないわけにはいかない。
協和会というのは戦前戦中に日本在住の朝鮮半島出身者を対象に組織されていた官製の団体なので、当然戦後の在日の団体や研究者からの評価はいいものではないという印象を持ってきた。

むしろ同胞を抑圧するもの、または民族性を抹消することに積極的に加担したと捉える人もいたし、在野の研究者による文献も見たことがあるし、少し文章も読んだことがある。

国策としてのアジアへの領土拡張、戦争協力を担える人材の育成、国内の治安維持を目的とした組織と捉えている。


祖父は大分県の国東半島に1930年代から定住していた。
そのため住んでいた地域の協和会支部の1940年代の発足時から役員をさせられてきた。
戦前の日本人がみななんらかの戦争協力にすすんでいった時代、祖父も朝鮮半島出身者の立場で戦争協力に巻き込まれていったと表現するのが妥当かと思う。

祖母は父の通知表卒業証書などと一緒に祖父の協和会関連の記念写真も何枚か帰国後も保管していた。

ある時期から私が手元に保管していたのだがもう処分してしまった。

警察関係の上の方の人たちと神社などで記念撮影されたものも数枚あった。

 

もう数十年も昔「協和会」ということばは知っていたけれど、祖父も実際にかかわっていたことを知ったのはその写真を見たときだった。

父も当然知っていた。

祖父は内地で協和会の役員までやっていたのに、解放後の祖国で生涯を終えていることになる。

とても珍しいケースだと思う。

 

私は1992年発行の自費出版『私の見て来た大分県朝鮮民族五十年史』の興味があるページを読んだことがある。
著者は1921年朝鮮半島で生まれ、1943年徴用で熊本県尾三井鉱業で産業報国隊として働き、戦後大分県に住むようになった人だった。

太平洋戦争真っ最中で、30代までの健康な日本人男子ならとっくに戦地に行っていた。

国内の炭鉱や鉱山で働く人材を朝鮮半島から連れてきたというわけ。

 

北朝鮮を支持する立場をとっており、著書にもはっきりと思想的立場が反映されていたが、戦前については当時の大分合同新聞記事を中心にまとめてあり、私のように戦前の状況を知りたいと思っていたものにはとても貴重な資料だった。

この本の戦前編では、なんと4分の1ページも使って協和会についてまとめられていた。

この団体が「皇民化政策」の実行組織として、朝鮮半島出身者に少なからぬ影響を及ぼしていたことが詳しく書かれていた。

生活習慣などの講習会の開催や神棚設置や婦人の和服着用のススメとか。

祖父は「仕方なしにやっていた」というぐらいで、父も積極的に語ることはなかった。
祖父は選挙権もあったので、票の取りまとめも依頼されるような立場だったようだ。

 

もう30年も前のことだけれど、まだ元気でいた韓国にいる叔父の一人と手紙でやりとりをしたことがある。

「どんな家でした?」という問いかけに、「特高刑事が出入りする家だった」と返信の中で書いてあり驚いたことがある。

特高」とはあの時代の社会主義思想や自由主義思想を取締まる刑事で、人々から恐れられていた。十代の叔父はそのことが強く印象に残っていたのだろう。

さらに祖父が協和会から福岡の炭鉱に「報国隊」として短期間赴いていた間は、家を留守にしていて不安だったと語っていた。

決して若いとはいえない祖父が福岡の炭鉱に入った時期は、18歳ぐらいの徴兵適齢の父が朝鮮半島に就職で戻った時期と重なる。

果たして父がこの事実を知っていたかわからない。

その頃特高刑事などがさかんに家に出入りして、叔父は祖父から目立たないようにじっとしておれといわれていたらしい。

私は、作家松本清張がご近所の有力者の心証を悪くしたから徴兵されたというくだりを自伝で読んで以来、祖父の福岡の炭鉱入りも、ひょっとしたら何らかの報復とかいやがらせの類ではなかったかと思うようになった。

 

話を戻すと、祖父が戦後すぐに結成された「在日本朝鮮人連盟」の地元のリーダーの一人になり、帰国を希望する同胞の世話を精力的にしていた後ろ姿を叔父は記憶していた。

叔父は韓国人なので、「朝鮮」ということばにはデリケートな感情を持っていて、手紙では当時はすべての朝鮮半島出身者を「朝鮮人」といっていたと但し書きを書いていたことを覚えている。

この戦後まもない頃に結成された在日本朝鮮人連盟のことを自然発生的に結成されたという文面をどこかで読んだことがあるが、あの混乱時期に自然発生的はないと思う。

祖父の動きから考えると、協和会の枠組みがそのまま水平移動して結成されたと表現した方がいいのではないか。

満州朝鮮半島からの引揚者たちを乗せた船が釜山から博多に着くと、かわりに帰国を希望する朝鮮半島出身者を整然と乗せていくための段取りや手続きを役所との連携で進めていったと想像する。

 

「○○町を最後に出た」と書く叔父の文面から、一度も会うことはなかった祖父ではあるが、その生き方は庶民の一人としてそれなりに立派なものだったと思う。