Out of Far East

東アジアの文化歴史の個人的覚書

父が見た日韓併合時代末期の朝鮮半島

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現在の下関港の夜景


父は1925年生まれ。昭和の年代がほぼ父の年齢ととれるので、何かと考えやすかった。
18歳ぐらいで朝鮮半島南部の大邱という町に近い所で就職し、20歳で祖国解放を迎えている。
わずか2年ほどの短い期間、山間部の面事務所(日本でいう役場)で農業技手という立場で働いていたが、いつのまにか周囲から「親日派」と呼ばれる集団の一員になっていった。

他者からの「親日派」という言葉による扱いでしんどかったのは、戦中よりもむしろ戦後つまり解放後の社会だったようだ。

 

この珍しい就職話は恩師が準備してくれた。その恩師は在学時から父に「志願兵になれ」と盛んに勧誘してきたのだが、とうとう祖父が怒って学校で面談することになったらしい。恩師からの勧誘は止まり、かわりにふるさとへの就職の可能性を折に触れて口にするようになった。

ということで父が朝鮮半島での就職を希望した。

この時、祖父は、高価なカステラを購入してきていくばくかのお金も包んで父に恩師宅まで持たせている。

祖父にすれば息子の命を救ってもらったことになる。

 

戦中に朝鮮半島の任地に赴くためには下関から関釜連絡船に乗らなければならなかった。

この乗船では大変な思いをしたという。

1943年、兵力の不足のためにそれまで徴兵猶予されていた大学や高等学校の文科系学生生徒が戦地に送られることになり、全国各地で出陣学徒壮行会が開かれた時代だった。

東京の明治神宮外苑競技場で行われた壮行会シーンは時代のムードを知るためにメディアでもよく流されてきた。

そんな時代にボストンバッグを片手に健康そうな若者が平然と乗船できるはずがなかった。

乗船間際にすぐ刑事が近づいてきて、いろいろ質問されたという。

学校からの推薦状らしきものは持っていたが、一人ではなかなか信用されなかった。

たまたま同じように任地に赴く年配者がいて、途中まで同行することになっていた。

その人が一生懸命父のことを説明してくれたのでなんとか乗船できた。

後になって父は人伝に学校側にもなんらかの圧力があったことを知った。

といっても終戦は知らないところで確実に近づいていた。

この時代に朝鮮半島出身の若者が関釜連絡船に乗るのは、不快な尋問を受けるので難しかったことを何回か手記でも読んだことがある。

作家金達寿も伝記のような作品で書いていた。

 

無事に釜山から任地に着くと最初に目についたのは、現在の韓国にある洛東江(ナクトンガン)の黄色く澱んだ河の流れと農婦が田植えができるかどうか不安そうに空を仰ぐ姿で、沈鬱なそれなりの感慨はあったようだ。

「もう帰ろうかな」とも思ったらしい。

 

とりあえず面事務所に向かうと、すぐに刑事が近づいてきた。
この刑事は日本人ではなく朝鮮半島出身者だった。
こんなところで刑事をやれる日本人男子なら、とっくに戦地に赴いていたはず。


またもや刑事から何者であるか根掘り葉掘り質問攻めに合い、

創氏改名してるか? ここでは創氏改名してなかったらだめだよ」

という内容で確認してきた。

創氏改名と通称を名乗ることは別物だ。

さらにその日からしばらく泊まることになっていた旅館までついてきて、ボストンバッグの中身を全部出させて1つ1つチェックまでされた。

どうやら父の思想を所持品で確認しようとしていたらしいが、父は当時マルクスという言葉も聞いたことがないような青年だったし、あやしいものは所持していなかったので無事に済んだとのこと。
それからその日の晩は「盛大な」歓迎会をしてもらった。

 

戦局が悪くなっていたので、朝鮮半島にいる健康な日本男子は戦地に行く時代だった。

面事務所で働く人は7:3ぐらいの比で朝鮮半島出身者の方が多かったらしい。日本人はほとんど管理職だったという。


父は内地日本育ちで日本語しか話せないので、仕事を離れても主に日本人の同僚と付き合っていたという。

仕事は農村をまわって収穫を上げさせるための助言をするのだが、言葉ができないので現地の通訳をつけてもらっている。

周囲は内地の日本人と思っていた父が、実は朝鮮半島出身者であることがわかると、言葉も文化も知らない青年ということで「かわいそうに」とさかんに同情されたらしい。

微妙な立場で精神的苦悩を胸に秘めて2年間をすごした人であった。

しかし戦地や徴用先の苛酷な現場と比べたら、はるかに恵まれた環境だったはず。
こういうブログを書いていると、生前にもっといろいろなことを深く聞いておけばよかったと後悔している。

私も余裕がなかったこともある。

そんな父が見た当時の朝鮮半島について、聞き取りからかんたんにまとめると次の2点になると思う。あくまでも父のはるか遠い記憶であり、聞き取った私の判断も入る。

この歳になるまで父のように考えた人や手記に触れる機会がほとんどなかった。
 
大和民族以外は劣等民族として扱われた。

父の給与には大和民族の日本人なら付いていた6割増しの「外地手当て」が付かなかったし、昇進もあきらかに阻まれていた。

自分よりも明らかに現場処理能力が劣っている者が、目の前で昇進していく悔しさを体験している。

これは私がかつて目撃した日本社会にある学歴差別の実態とよく似ている。

戦争が終わったとき、父の周辺の日本人はまったくといっていいほど朝鮮半島出身者から危害を受けずに帰国していった。

「あれだけ押さえられていたのに」と当時を振り返り、大らかな民族性に感動したと語っていた。
それに比べて関東大震災時は……という感情は持っていた。

この感情は強かったと振り返る。


②日本は朝鮮半島で悪いことばかりしたとは写らない。

いいこともしていたという。「これだけはいっておきたい」ということで、朝鮮半島の近代化を促したのは日本だと断定していた。

こういうことを言明する場はなかっただろうと思う。


残念ながらいいことの中身を具体的に聞き出すことはできなかったが。
「植民地時代、日本は悪いことばかりした」というような感情的な主張や論調を嫌っていた。

私は庶民への初期の教育環境も入るのではないかと思っている。

韓国の教育史の詳しい見識はないけれど、この時代の日本が強いた教育制度のあくまでも良い面を冷静に受け取っても良いように感じている。